空・殻・核 (くうからかく)

クロノスとカイロスの狭間を転がる

6.『2001年宇宙の旅』と人間の意識

ふと改めて「意識」って何だろうかって考える。私たちはそもそもふだんは当たり前のように意識とともにあるので、「意識」自体について、ほとんど思考することがない。

 

まずは、どんな時に「意識」という言葉を使うだろうかと考えてみる。すると、大きく次の2種類のパターンが思いつく。

〇「大丈夫だ。まだ意識がある。」

…自分という器の内部に投げ込まれて周辺世界が認識できている状態。

〇「彼女を意識している。」

…自分からある対象に向かって矢印が投げかけられている状態。

 

ここで、「意識」という言葉の辞書的意味も確認しておく。

い‐しき【意識】(『広辞苑』第四版より)

①〘仏〙 (梵 mano-vijñāna) 認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して純粋に内面的な精神活動。第六識。

②(consciousness)今していることが自分で分っている状態。われわれの知識・感情・意志のあらゆる働きを含み、それらの根底にあるもの。唯物論哲学では、意識の生理的基礎は脳髄の活動で、個人の意識は環境の主観的反映として時間的・空間的に限定されている、と考える。また、観念論哲学では、経験的意識の根底にその本質ないしは可能の条件として経験に制約されぬ純粋意識・先験的意識・意識一般などの先天的存在を論定し、それが認識・道徳・芸術などの妥当性の根拠をなすと考えている。

③特に、社会意識または自己意識(自覚)。

④対象をそれとして気にかけること。感知すること。

 

「意識」という言葉の用法で言えば、前述の2パターン目に当たり、しかもそれが人類全体、その時代の世界全体にまで拡大させたような感じでの、大きな動きとして「パラダイム・シフト」という言葉があるように思う。

 

既に今や「昭和のオヤジ」と化して久しい私たちにとって、その瞬間はまさに時代のうねりを見た瞬間だった。それが平成の幕開けの出来事だった。西暦で言えば、1989年1月7日の昭和天皇崩御によって、翌日1月8日に幕開けした「平成」はまさにその年の秋には象徴的な出来事が起こる。それが「ベルリンの壁崩壊」であり、共産主義諸国がその体制自体に耐えかねてまるでドミノ倒しのように次々に連鎖的に内部崩壊していく様子は見事としか言いようがなかった。自分たちが生きている間に、こんな大きな出来事を目の当たりにするとは思ってもみなかったからだ。まさしく歴史上、人間全体の物の見方自体が大きく変化している、まさにそのうねりの中にいる瞬間だ。まるで足元の大地がずれていく現場にいるような感覚にさえ思う。もっと言えば、後になってみればわかったことだが、それこそが「歴史の終焉」の瞬間だったのかもしれない。

 

さて、そんな人類の歴史の重要な一コマですら、私たちの宇宙全体の歴史から見れば取るに足らない小さな出来事でしかない。この私たちの宇宙が誕生して現在約138億年が経っていると言われる。宇宙が誕生して以降の歴史において、まるで通奏低音のように、何か創造主の精神のようなものが鳴り響いていて、その過程において、約46億年前に、太陽、そして、地球を含む太陽系、そしてわれらが地球が誕生した。

 

宇宙と意識について関係づけられて表現された作品と言えば、その代表作が、アーサー・C・クラーク原作のSF小説であり、スタンリー・キューブリック監督の映画でもある『2001年宇宙の旅』である。その後、小説は、同じくアーサー・C・クラーク原作の続編として、『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終焉の旅』と続いている。

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アーサー・C・クラーク2001年宇宙の旅

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スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅

この小説『2001年宇宙の旅』の第6部最終章は、次のような文章で締め括られている。

「それから彼は、考えを整理し、まだ試していない力について黙想しながら、待った。世界はむろん意のままだが、つぎに何をすればよいかわからないのだった。だが、そのうち思いつくだろう。」

これは、かつてボーマン船長だった存在が、今、スター・チャイルドとして、新しい力を手に入れ、地球のすぐ近くに姿を現して浮かんでいるところで表現されている文章だ。

 

面白いことに、これと呼応する次のような文章が、第1部最終章1つ手前の章に存在する。

「数秒のあいだ、〈月を見るもの〉は心を決めかねるように新しい犠牲者の上に立ちはだかり、死んだヒョウがヒトザルを殺すという、ヒトザルを殺すという、不思議な、しかしすばらしい事実を一所懸命把握しようとしていた。今や彼は世界の支配者なのだ。だが、つぎに何をするかとなると、さっぱり見当がつかばいのだった。だが、そのうち思いつくだろう。」

これはやがて人類として進化していくヒトザルが、新しい力を手に入れた場面で表現されている文章だ。

 

スタンリー・キューブリック監督によって実に芸術的で美しく描かれた『2001年宇宙の旅』の映画の中で、特に印象的なシーンが、初めての武器である動物の骨を手にしたヒトザルが投げた、その骨が、次の瞬間、宇宙船になるというシーンだ。それはまるで現代のデジタル・テクノロジーへと繋がっていく人類の道具の製作・使用の歴史が、悲しみや憎しみや怒りといったある種感情的なものとともに、そして、それこそがまさしく戦争とともにあったことを示唆しているようでもあり、それは宇宙の歴史から見れば本当に取るに足らないような一瞬の場面切り替えでもあった。

 

ニュースの映像の音声として流れる「ベルリンの壁」が壊されていく、その音は、まるで1960年代のカウンター・カルチャーでしきりに「ニューエイジ」として取り上げられた「水瓶座時代」(アクエリアンエイジ)の幕開けを告げるブリューゲル・ホーンのようにすら聞こえた。天球上を地球が動くとき、黄道十二宮の12星座を横切るわけだが、その各星座は天球を一周する25,920年というプラトン周期を12分割した2,160年で通過することになる。つまり、一つの星座時代は、2,160年ということで、大体二千年紀(ダブル・ミレニアム)が一単位だ。西暦の始まりをイエス・キリスト生誕とするなら、その「炎の魚」と言われたイエス生誕に始まる2000年の歴史こそ「魚座時代」だったわけで、来たるべき21世紀というのはまさに「水瓶座時代」への突入の象徴だった。ずっと光が射し込まないと思われた、息苦しい東西冷戦の時代の終わりは新しい時代の到来への準備にふさわしかった。

 

ふとこんなふうに考える。「人間の精神が魚座の魚だとすれば、それは実は水瓶座の水瓶に入っている魚であり、その魚はその水瓶から外へと出たがっている。というより、その魚を観察する精神こそ、水瓶を覗いていた人間だったというわけである。つまり、人間の新しくパラダイム・シフトしていく意識空間とは水瓶座の水瓶の内部空間であり、その水の鏡に映る魚座の魚こそ従来の人間の意識空間であった」のだと。そして、この黄道十二宮を転がり進む人類の意識を載せた地球の姿は、まるで、メビウスの帯の裏表720度をめぐっていく観察者の視点そのもののようだ。

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黄道十二宮を転がり進む人間たちの意識

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メビウスの帯

 

5.宇宙と世界、そして、精神と生命と物質

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宇宙と世界

「宇宙」と「世界」という似たような言葉がある。どちらもかなり広い範囲を指す言葉だ。「宇宙」の「宇」は前後・上下・左右の「空間」を表し、「宙」は過去・現在・未来の「時間」を表すという。一方、「世界」の「世」は「時間」を意味し、「界」は「空間」を意味するという。つまり、「宇宙」は空間と時間、「世界」は時間と空間を意味し、面白いことに、うまくその順序が逆転しているのだ。しかも、どちらかと言えば、「宇宙」という言葉は主として「自然科学」、特に物理学などにおいて好んで用いられ、「世界」という言葉は主として「人文科学」、特に哲学などにおいて好んで用いられる。

 

少し脱線するが、物事に対して、「一から十まで」と言うと、何から何までとか初めから終わりまでといった意味になる。それを「十」で代表させると、「十十」(二十)で「廿」、「十十十」(三十)で「世」という漢字をなす。一説によれば、なんでも中国の殷の時代には、人生三十年という感じで寿命が短かったものだから、三十年が一つの世を表す基準になったのだとか。

 

さて、前述した通り、「宇宙」と言えば「空間」と「時間」のことなので、いわゆる「時空」のことである。時空と言えば、真っ先に思い出すのが、アインシュタイン相対性理論だ。相対性理論と一口に言っても、実は1つの理論ではなくて、特殊相対性理論(1905年発表、以下特殊相対論と略す)と一般相対性理論(1915年発表、以下一般相対論と略す)の2種類がある。光と関係の深い時空の理論が「特殊相対論」の方で、重力と関係の深い曲がった時空の理論が「一般相対論」の方である。ここでは、小難しい詳しい話は脇に置いておいて、特殊相対論における相対論的関係式と呼ばれる等式を鑑賞してみる。

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特殊相対論的関係式

いわゆるエネルギーと運動量と質量の関係式であり、運動量と呼ばれる物理量がゼロとなるとき、エネルギーと質量は等価となるという式だ。ここで、「エネルギー」とは何かの運動を引き起こすポテンシャル(潜在能力)のようなものであり、「運動量」は物体などの運動を表す物理量であり、「質量」は物質に固有の物理量である。これは純粋に物理学における純粋な物理量同士の関係式なのだが、このエネルギー、運動量、質量というものに、精神、生命、物質という概念を当てはめてみると、結構イケてる気がする。イメージとしては、坂の上にあった「精神」と呼ばれる球体が、勢いよく転がって、坂の下の「物質」に変換されるといった感じであり、その変換を行う実体こそが「生命」だというわけだ。これはトンデモ的ではあるのだが、まんざらでもない感触があるのはなぜだろうか。

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精神と生命と物質の関係に対する様々な対応のイメージ

 

4.オイラー線

ここで、「宇宙の果て」からの眼差しというものをちょっと考えてみる。その「宇宙の果て」こそが実はHuman(人間)の観測位置であり、そのHuman(人間)という遥か彼方からこのObject(対象、物)へと目掛けて眼差しが注がれるとき、既に眼差しの本来性としてのGod(神)がその線分上に書かれているとしたら、どうだろうか。それこそがH-G-Oと結んだ線分であり、本当は無限の長さを持つものが、その長さに縮められたものなのだ。3本の直交軸で特定されるある位置を持つ点Hから、その3方向を全体性として等価に関係させる原点Oという基準点へ向けて、その途中で、たいそうずっしりとした重みを有したある点Gが存在する。それはまるで「精神」が「物質」として結実する途上で、とても大事な何かをなんとか零さないように抱えたまま転がっていくもの――それこそが「生命」なのだとふと思う。

 

そこで、このH-G-Oを結んだ線分上に一体どんな秘密が隠されているのだろうかと、少し調べてみたい。この線分は、数学的には2次元の幾何学において、「オイラー線」と呼ばれるものだ。ウィキペディアの「オイラー線」の図を参照しながら、見ていこう。

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垂心・重心・外心の位置とオイラー

まず、三角形の幾何学で「五心」と呼ばれる、三角形の最も代表的な5つの中心があって、外心・内心・傍心・重心・垂心の5つを指す。このうち、オイラー線と特に関係が深い、垂心・重心・外心の3つについて説明する。これらh、いずれも、任意の三角形において成り立つ。

 

〇垂心H…三角形△ABCの各頂点A,B,Cからの各辺a,b,cに垂直に下した線分=「垂線」(青の線)は、1点で交わり、この交点を「垂心」Hと呼ぶ。

 

〇重心G…三角形△ABCの各頂点A,B,Cと各辺a,b,cの中点を結ぶ線分=「中線」(黄色の線)は、1点で交わり、この交点を「重心」Gと呼ぶ。

 

〇外心O…三角形△ABCの各辺a,b,cの垂直二等分線(緑の線)は、1点で交わり、この交点を「外心」Oと呼ぶ。この点は、各頂点A,B,Cから等距離にあり、三角形△ABCの外接円の中心である。

そして、この外心0と垂心Hを結ぶ線分を「オイラー線」と呼ぶ。このとき、重心Gもこの線分上にあり、この線分OHを1:2に内分する。つまり、2OG=GHとなる(ウィキペディアオイラー線」参照)。言い換えれば、外心Oと重心Gを結ぶ距離を「1」とすれば、オイラー線OHという線分全体は「3」の長さを持つというわけだ。

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オイラー

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重心はオイラー線を1:2に内分する

オイラー線は、直接的にも象徴的にもいろいろな秘密や暗示を内包している感じがとてもするのだが、象徴的には、外心は円を描く「コンパス」の支点に見えてくるし、垂心は直交性を示す「直角定規」の角に見えてくるし、そのコンパスと直角定規が取っ組み合っている現場の真ん中で両者の関係をじっと睨みを効かせながらG(重力)をかけているのが重心であるかように思える。これはどこかで見た記号のように見える。

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フリーメーソンのマーク

昔よく歴史の背後で秘密結社として動いてきたと言われた、あのフリ-メーソンのマークだ。まさかフリーメーソンのマークがオイラー線を表していたとは今まで思ってもみなかった(笑)。

 

ここで改めて、三角形のオイラー線OHの向きを変えてHOとすれば、この線分HOを重心Gによって2:1に内分される。これを、私たちの宇宙の歴史全体に当てはめてみよう。つまり、宇宙の歴史全体をオイラー線とみなし、138億年前の宇宙の誕生をH、今が宇宙の歴史の最新の時点だとすれば、それが点Oだが、人類の誕生である約800万年前はほとんど無いに等しく、点Oに近似していると言ってもいい。そして、宇宙の歴史の中で、その人類の誕生を含む地球の歴史は約1/3に相当する。つまり、ほぼ太陽の誕生=太陽系の誕生=地球の誕生として、宇宙の誕生138億年前に対して、太陽=太陽系=地球の誕生は46億年前

というわけだ。そうすると、おおまかには、H:宇宙の誕生=物質の誕生、G:地球の誕生=生命の誕生、O:人類の誕生=精神の誕生、となる。しかし、一方で、精神は物質や生命よりも先行して存在する気がするし、そうした先行する精神や生命があるからこそ初めて、いまここの最終局面に物質が存在すると思える。そう考えると、H,G,Oはむしろこの順で精神、生命、物質の位置であるようにも思えるのだ。いくつも視点を変えながら、この辺りをじっくりと考えてみるのも面白いかもしれない。

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宇宙と地球の歴史軸

 

3.コロガリズムとは?

「コロガリズム」(cologarithm)という言葉がある。元々は数学用語で「余対数」のことであり、「逆数の対数」という意味だ。その辺から始めよう。

 

新しい言葉が慣れ親しんだ日常に舞い降りるとき、それは既存の響きおよびその意味に引き摺られる。「コロガリズム」という響きを初めて耳にしたときのイメージは何だろうか?

 

私は「コロガリ(転がり)」という響きからは「サイクロイド」(直線を転がる円周上の定点が描く軌跡)のイメージが立ち上がる。

 

ついでに、「転がり住む」という駄洒落的から「居候」のイメージまである。

 

以上、まとめてみると、私のコロガリズムのイメージは、次の3つだ。

 

イメージ1:余対数(cologarithm)……逆数の対数(logarithm)

イメージ2:サイクロイド(cycloid)…直線を転がる円周上の定点が描く軌跡

イメージ3:転がり住む ………………居候?

 

ここで改めて。本来の数学用語としての「コロガリズム」の意味を説明しておこう(ウィキペディア「対数」参照)。

 

1 でない正の実数 a および正の実数 x に対し、

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指数

を満たす実数pは唯一つ存在する。このpをxのaを底とする「対数」(logarithm:ロガリズム)と呼ぶ。つまり、対数とは、ある数xを数aの冪乗として表した場合の冪指数pのことで、

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対数

と書く。

 

また、逆数の対数を「余対数」(cologarithm:コロガリズム)と呼ぶ。なお、底を逆数にすると、対数の符号が反転するため、次の性質がある。

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コロガリズム

最後に、「コロガリズム」という響きを持つ言葉の、私なりのイメージから来る詩的な本質について伝えておこう。こんな感じだ。

 

初めての物事に触れるとき、良くも悪くも私たちはドキドキする。書店に並ぶ初めての本を手にしたとき。初めての場所に訪れ、そこの空気を吸ったとき。そして、初めての人に出会ったとき。知らないことの不安に、初めて知ることへの期待に、私たちはドキドキする。それまでうまく閉じられていたと思っていた古い自分が開き、自分の中の何かが零れ落ち、逆に、新たな何かが湧き起こり、新しい自分が生まれる。

 

あなたとわたしが初めてにせよ、何度目かにせよ、ふと向き合うだけで、お互いの深い深いところに潜む何かが転がり始め、交流を始めようとする。それがコロガリズム。

 

あなた自身もまだ気づいていない、あなたのもっと内側の奥深くにずっと流れている通奏低音。それはこの宇宙が始まったときからそこにあり、あなたが生まれたときからそこにあり、そしてあり続けているもの。そこにふれたくて、私たち人間は何かを求め、問い続け、生きている。知らないはずなのに、なぜか懐かしくて、いとおしくて、時に狂おしくて、ドキドキしながら、それにふれる。まさに、そこへの旅こそ、コロガリズムだと言いたい。

 

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あなたとわたしのコロガリズム

 

2.2019年はどんな年か?

きょうは2019年の1月31日だ。どうしても、1月中にこのブログを始めたかったのには、私なりの理由がある。「1年の計は元旦にあり」などと言われるが、元旦が無理ならせめて1月が終わり切る前に「書き始める」という行為をしたかったわけだ。というわけで、書き始めたのだが、今年はいろいろな意味で、一つの区切りを迎える年なのかもしれない。来年2020年は日本で2回目のオリンピック(五輪)が開催されるが、その前の年である今年2019年は今の天皇陛下生前退位されて、5月1日から新しい元号になるという。和暦が更新されるということだ。

 

12年で1周するという「干支」の話で言えば、2008年に「子」(ね)の年として始まったこの12年のサイクル(周期)は、2020年でちょうど12年がめぐって新しいサイクルに入る。つまり、今年2019年から2020年は、新しいサイクルへと「めくられる」1年だと言える。「巡る」(めぐる)は「捲る」(めくる)の意味も持っていて、平板に回っていた一つの周期を終えて、次の新しい平面へと階層を移すような感じに思える。このとき、わざとらしくなく、まるで自然の風の悪戯のように、ひらりと、フリルのスカートが一瞬ふわりとめくれたかのように波打ち、それをたまたま目撃した視線をドキドキさせるような、そんなある種メビウスの帯の表と裏がなめらかに反転する現場こそ、その「メクレ」である。それが「干支」の12年から次の12年に移行する1年ではないかというわけだ。

 

人間はふつう毎日寝ては起き、寝ては起きるといった感じで、1日1日をほぼ同じような周期で動いていることが多い。それが365日降り積もって1年をなし、その1年もまた毎年大体同じような過ごし方を、服装だとか食べ物といったものは季節的な観点からは繰り返しているように思えるし、契約の更新といった仕事上の手続きのようなものまでも大体同じように繰り返している気がする。そうした1日は、私たちが暮らす太陽系第3惑星の地球の自転周期に基づくものだし、1年もまた、その地球が太陽の周りを公転する公転周期に基づくものだ。つまり、地球の自転や公転といった1回転は、単純に私たちの生活のリズムを構成しているし、さらにそうした生活のリズムに従っている私たちの意識にまでたぶんに影響を及ぼしていると言える。

 

では、前述の干支はどうかと言うと、これは太陽に対する木星の公転周期11.86年に近似している。つまり、木星は約12年かけて太陽の周りを一周するが、干支はこの周期とシンクロ(同期)しているのだ。太陽系には現在、太陽に近いから、水・金・地・火・木・土・天・海の順で内側から外側へと並ぶ8個の惑星が発見されているが、内側からの順序で言えば、木星は第5惑星となり、火星と木星の間にはメイン・ベルトと呼ばれる小惑星帯がある。木星は「太陽になり損ねた惑星」だとも言われ、引き連れている衛星の大きさや数も多く、その構造からして、一種の「ミニ太陽系」だとも言われている。

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2008年からの干支1周12年

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円と双曲線のオイラーの公式

したがって、木星はかなりの重量級であり、この重さゆえに、太陽系全体の重心は太陽の中心ではなく、太陽の表面辺りにくるらしい。その太陽の表面には「黒点」と呼ばれる周囲の温度より低いものが、大体9.5年から12年ほどの周期で増減を繰り返しているという。これをかなり大雑把に木星の公転周期と太陽黒点の周期が等しいと考え、木星の公転周期に伴う重力場の変化のようなものが黒点として太陽の表面に生じているのだとしたら結構面白いとは思うのだが、そう単純なことでもないのかもしれない。

 

とにかくその12年周期の1回転が閉じようとする年が今年2019年であり、今年1年のうち、約1/3(120日)が経った日に、天皇生前退位が行われ、新天皇が即位されるため、新元号が制定される日は、結局1:2に内分する日になる。別の言い方をすれば、新元号となった8ヶ月に対して、今年の元日は、まだ平成である4ヶ月と、今年2019年の1年全体を、1:3に外分する点となる日であるとも言える。

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天皇即位日は2019年を1:2に内分する

 

1.何もないところから書き始めてみる

全く何もないところ=「空」(void)から何かを始めてみる。ただ実際には、全く「何もないところ」などというものは存在しない。気づいているか否かは別にして、そこには何らかの存在、何らかの気配、何らかのエネルギーといったものが存在しているのだ。かつて古典論においては、全く何もない状態だと考えられていた「真空」と呼ばれる場にも、常時、仮想粒子としての電子と陽電子、いわば、正粒子と反粒子対消滅と対生成が生じているという。結果的に相殺されてゼロとみなせる状態になっているだけだ。いや、もっと正確に言えば、理論的に最低エネルギー状態として満たされているところを、物理学では「真空」と呼ぶ。

 

それと一緒で、自分が書こうとするところにも、実は元々何かがあったのかもしれないが、そこを下地としてその上にとにかく新たに何かを書き記すのだ。それこそがゼロから書き始めるという行為だ。私も、そんなふうに何かを書こうと思う。

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時計草の花